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ISO審査員と内部監査員に有益な情報をお伝えします。
現在、世の中で成功したと評価される起業家はそう多くはいません。ニデック(旧日本電産)の永守重信氏はその数少ない成功した起業家です。彼は29歳で起業したそうですが、最初は3人の従業員だけだったそうです。しかし、彼はその時に「1兆円の会社にするのだ」と宣言したそうです。彼はあるインタビューで次のようにその信念を述べています。「物事には、変えてはいけないものと変えていかなければならないものがある。社是、理念、ビジョンなどの根っ子は変えてはいけない。しかし一方で、土の上の枝葉はどんどん変えていかなければいかない。たとえば、その一つに労働時間がある。創業当初、実績も信用も人手も設備も資金もなかった私たちは、「人の倍の時間働く」ことしかライバルに追いつく術はなかった。この時代は「長時間労働」こそが「ハードワーキング」の定義だったのだ。しかし、いまはハードワーキングの定義もだいぶ違ったものになってきた。肝心なのは競争相手に勝てる仕事をしたかどうかである。つまり、結果がすべてだということだ。肉体ではなく頭脳をフル活用する「知的ハードワーキング」が今日求められるのだ。」
彼は手段が変わっても、ハードワーキングこそが競争の源泉であるととらえているのです。
グループによるすべての学習は究極的には,あるひとりの人が最初に作った信条や価値感を反映する。つまり実際にどうあるかではなく,どうあるべきかに関するその人物の感覚が反映されるからだ。グループが最近形成されたり,あるいはグループが新しいタスク,課題,問題に直面した時には,それに対応するために提案される解決策には,ある個人の「何が正しく,何が正しくないか」,「何が成功し,何が成功しないか」に関する前提認識が反映される。ここで皆を説得し,その問題に対してある解決法を採択するようにグループに影響を及ぼすことができる人物がのちにリーダーまたは創始者として認知されるのだ。しかしまだこの段階ではそのグループは,グループとして共有された知識を築いていたとは言い難い。何故なら,そのグループがどう行動すべきかに関して共通のアクションを取ったとは言えないからだ。何が提案されたにせよ,それはリーダーが望んでいることが認識されたに留まる。グループが共同のアクションを取り,そのアクションの成果を一緒に評価するまで,そのリーダーが望んだことが正しいものであったかどうかを判断する共通のベースが築かれたとは言えないのだ。
出典 エトガー・H・シャイン「組織文化とリーダーシップ」2012年白桃書房
永守氏は次のようにも言っています。
「1983年、私は精密小型モータの市場で主流だったFDD(フロッピー・ディスク・ドライブ)用モータから撤退し、まだ受注量も少なく発展途上にあるHDD(ハード・ディスク・ドライブ)用モータの開発・製造に全ての経営資源を集中した。はたして、1980年代後半からパソコンの小型化・薄型化の流れが一気に加速し、HDD用モータの需要は拡大して業績は伸び続けた。日本電産はこの分野のトップメーカーとなったのである。どんなに隆盛を極めた事業でもピークアウトは必ず訪れる。したがって、中長期的な視点に立って次の一手を打つことが何よりも大事なのだ。」
たとえばある発足間もない企業で売れ行きが落ち始めると,そのマネジャーは「広告は増やさなければならない」と主張するかも知れない。というのは彼女は広告はつねに売れ行きを増大させるべきという信念を抱いているからだ。これまでこのような状況を経験したことのない販売グループは,彼女の発言を彼女の信念と価値観の表明と受け止める。つまり「彼女は,われわれが困難に陥ったときには広告を増やせばよいと考えているのだ」というメッセージとして受け取る。したがって,このリーダーからの提案には何のステータス(権威)も認められておらず,質問し,議論し,チャレンジし,テストされるべき対象だという価値しか認められていない。
しかしそのマネジャーが自分の信念にもとづいて行動する方向にグループを説得し,その解決策が成功し,さらにグループがその成功について共通認識を抱くようになると,「広告が効果的だ」という共通的に認識された価値観が徐々に浸透しはじめる。まず共有される価値観または信条として,最終的には共有される前提認識として定着する(そのアクションが繰り返し成功に結びついたとき)。もしこの変換プロセスが回転しはじめると,グループのメンバーたちは,彼らが当初は提案に疑問を抱いており,提案されたアクションの数々は単に論議と挑戦の対象にすぎないと考えていた事実を忘れ去る。出典 エトガー・H・シャイン「組織文化とリーダーシップ」2012年白桃書房
更に永守氏はつぎのようにも述べています。「会社や職場では、上司が部下の心の機微をつかんでいれば、部下は楽に働け、のびのびと力を発揮できる。心の機微をつかむとは、厳しさとやさしさを時と場合に応じてバランスよく発揮していくこと。叱るべきときには徹底的に叱るが、そのぶんの心配りを忘れないことでもある。リーダーに求められるのは「訴える力」である。自分の情熱、理念、ビジョン、夢などを、聞くものの心に染み込み、魂を揺さぶるまで、何度となく語り続けなければならない。私はこれを「千回言行」といって、自ら実践している。人は目でみたり、耳で聞いただけでは動かない。自らの意思で行動するためには、その理由がしっかりと腑に落ちていなければならない。千人全員に理解させるには、同じことを千回言わないといけないのだ。」
すべての信条や価値観が上記の変換プロセスを経過するわけではない。まずある価値観にもとづいた解決案がつねに問題なく機能するとは限らない。実際にテストされ,グループの問題の解決につねに貢献した信条と価値観のみが基本的原則に転換されるのだ。第2に価値観の一部の領域,つまり環境に対しコントロールの及びにくい分野に対応する領域,または審美的な,道徳的なことがらに対応する領域はテストすることが全く不可能であることも多い。第3に,その組織の戦略や目標が信奉された信念のカテゴリーに属しているかも知れない。言い換えると,メンバーの全員一致のコンセンサス以外,これを検証する方法が存在しない場合だ。つまり業績と戦略目標との間の関係が証明しにくいのだ。
社会的認定(social validation)とは,ある種の信条や価値観がグループの共有された社会的経験によってのみ確認できる,ということを意味する。たとえばいかなる文化といえども,自分たちの宗教や道徳システムが,ほかの文化の宗教や道徳システムよりすぐれていることを証明することはできない。しかしもしそのメンバーたちがお互いの信念や価値観を補強し合っているときには,これらが当たり前のものとして認められる。またその種の信条や価値観を受けいれない人たちは「除名」,あるいはグループからの追放のリスクを背負うこととなる。ということは,信条や価値観が機能するか否かは,そのメンバーたちがそれらに従ったときに,彼らがいかに心地よく,かつ不安を感じずにすむか,によってテストされるのだ。出典 エトガー・H・シャイン「組織文化とリーダーシップ」2012年白桃書房
このようにリーダーは固い信念をもってグル-プを導き、その導きによりグループに成果がもたらされると,リーダーによって広められた信条と価値観は,グループに不確実性を減らすことが「認識」され、リーダーの信条と価値観はそのグループのモノになっていきます。さらに、これらの信条や価値観がグループメンバーにその意図と安心を提供し続けると,これらはたとえ業績と関係ない場合でも,疑問を差しはさむ余地のない基本的前提認識(assumption)に格上げされます。つまり信奉される信念や道徳的/倫理的ルールはつねに意識されるようになります。何故ならリーダーの信条と価値観は,グループメンバーをガイドする規範的,道徳的機能を担っているものになっているからです。そして、リーダーの信条と価値観は、メンバーたちが重要な出来事にどう対応するか,新人たちにどのように振る舞うべきかを教えるときのガイドとして機能するようになります。さらにこのような信条や価値観は、歴史的にみて理念(イデオロギー)や哲学として定着することも多くあります。
もしリーダーの信条や価値観が効果的なパフォーマンスに繋がらないと当然のこととして、そのリーダーはグループの中で信頼されなくなり立場を失うことになります。また、信条や価値観と合致していると表面的には見えても実施の組織で信奉され ている価値観はリーダーの主張しているものと異なるという場合もあります。たとえば企業の理念では,その企業が人材を尊重し,さらにその製品の品質に高い基準を設けていると言いながら,実際の成果は言っていることとかなり異なっているというケースです。
どの組織もチームワークを標榜しますが,実際には個人の貢献を評価しています。多くの組織の従業員は、マネジメントはチームを強く言うが昇進するためには,競争心が旺盛で,政治的に動くことが重要だと思っている人が多くいるのです。したがって、組織文化それに付随する信条や価値観を分析する際には,すぐれた業績を導く底を流れる概念に一致しているか,その組織の理念や哲学の一部を占めているものか,逆に,単に外部に示す広報の役割を負っているにすぎないのかをしっかり見極めなければなりません。
多くの場合,信奉された信条や価値観は抽象的なものであり,お互いに矛盾することもあり得ます。たとえばある企業が,株主,従業員,顧客には均等に貢献すると宣言したり,最高の品質と最小のコストの両方を主張したりするケースがあります。信奉する信条と価値観は,さまざまな行動について説明しがたい部分を残すことも多くあります。この結果われわれは,文化の一部は理解できても,文化全体を把握したと感ずることができない場合が多くあります。
(つづく)Y.H