第2回 ECとの貿易摩擦の激化

貿易不均衡の拡大は、一方で、日本と欧州の対話を促すきっかけにもなりました。1973年に大平外相(当時)が欧州委員会を訪問した際に、年2回の日本・欧州ハイレベル協議の開催が決まり、1974年には、駐日欧州委員会代表部が東京(白金)に設置されました。

1976年、経団連の訪欧ミッション(土光敏夫団長)が、英国のほか、西ドイツ、フランスなどの欧州各国を歴訪しました。土光ミッションは、各国で、貿易不均衡に対する厳しい批判を浴びると同時に、対日輸出摩擦等に対する改善を強く求められました。対日批判と対日感情の悪化に参加者ばかりでなく、日本政府も愕然としたのが当時の状況でした。土光ミッションをきっかけに、日欧の貿易不均衡問題は、一気に政治問題化していきました。政治問題化した理由の1つとして、我が国の対欧州輸出額が輸入額の2倍に達していたことや、対欧州貿易黒字額が30億ドルという限界ラインを突破したこと等が指摘されました。我が国としては、自由貿易の原則に沿った解決策の拡充、縮小傾向ではなく拡大均衡によって、貿易不均衡を解決すべきこと、さらに対日輸出を拡大させるために、欧州側も努力する必要があること等を基本的立場として示しました。あわせて、実行可能な貿易不均衡改善策(輸出自主規制と輸入手続きの簡素化による輸入促進等)をとることを欧州側に伝えました。

貿易不均衡に対する欧州側の苛立ちは、露骨な感情的反発となって現れることもありました。1979年に、欧州委員会の内部文書が日本人を「ウサギ小屋に住む仕事中毒」と揶揄していることを、英国の新聞がスッパ抜いたこともありました。日本人は、ウサギ小屋のような小さな家に住んで働き続けているため、とても欧州諸国は、日本との競争に勝てるわけがないという論調だったのです。こうした非難の底流に流れていたものは、日本はグロテスクで、欧米諸国とは全く違うシステムの世界を作っているという「日本異質論」でした。

1980年代に入ると、我が国の対欧州貿易黒字は大幅に増加し、年間100憶ドルを超えました。貿易収支の黒字額が、欧州からの輸入額を上回るという事態が、1988年頃まで続いたのです。貿易摩擦は、プリンター以外、工作機械、VTR、自動車、半導体等々の分野に拡がっていきました。欧州側は、貿易不均衡の原因を、日本市場の閉鎖性に求めるようになり、日本側に市場の開放、輸入拡大を強く迫りました。

欧州側の貿易不均衡に対する焦燥感が極限に達したことを、象徴的に示したのが、1982年10月から1983年4月にフランスで起きた「ポワチェの戦い」です。フランスは、通関文書等にフランス語の使用を義務付けたばかりでなく、欧州域外から輸入されるVTRの輸入通関手続きを、フランス内陸部の事務処理能力のほとんどないポワチェの小さな税関事務所に一元化する措置をとりました。これは実質的な輸入制限措置であって、実施後1ヶ月で、日本製VTR約6万台が倉庫にあふれかえりました。当時、フランス国内には、VTRを量産できるメーカーは存在せず、日本製VTRがフランスメーカーに打撃を与えたという主張は、全く根拠のないものでした。

ローマ条約第30条(自由貿易の規制)に抵触するおそれにあるこのフランスの措置は、翌83年4月に撤廃されました。しかし我が国は、VTRを含む特定10品目について、対欧州輸出自粛措置を1983~85年まで3年間続けるという実質的な輸出自主規制を余儀なくされました。

1985年7月日本政府は、市場アクセスの改善等を骨子とする「アクション・プログラム」を発表しました。これは「原則自由・例外制限」を基本とし、関税面・非関税面において、国際水準を上回る開放度を達成することを目的とするものでした。しかし、1986年頃から、欧州はアンチダンピング措置を多用するようになり、また、ポワチェ事件が1つのきっかけとなって、日本製品は、輸出から現地生産へと切り替わっていきました。

1986年10月には、欧州は日本の酒税制度は輸入酒に対して差別的であるとして、ガット(GATT:現在のWTO)提訴を行いました。欧州は、二国間協議で成果がえられない場合には、ガットに持ち込み多国間協議の場で、日本から譲歩を引き出すという戦略をとるようになったのです。1986年4月に「国際協調のための経済構造調整研究会」の報告書(通称前川レポート)が公表されました。この前川レポートは、日本の経済構造を輸出主導型から内需主導型へと転換する必要があるとして、経常収支の不均衡是正、国民生活の向上等に積極的に取り組むことを、内外にアピールしました。

80年代半ば頃から90年代初めにかけては、我が国の対欧州直接投資が急激に伸びたことから、直接投資が新たな経済摩擦の火種として浮上してきました。1984年に15.5億ドルであった対欧州直接投資額は、1986年には33.2憶ドル、1988年には83.3憶ドル、1989年には140.3憶ドルにまで増大しました。しかも対欧州投資が、金融・保険分野に集中したことから、欧州側は、雇用機会の大きい製造部門への投資を増やすよう要求すると同時に、相互主義の立場から、欧州の銀行等が、日本国内で自由に活動できるようにすべきであると主張しました。

(次号へつづく)