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第一回
1. まえがき
現在、私は(株)テクノファの会長としてISOマネジメントシステムの普及に努めています。
関わっている分野は、ISO 9001品質、ISO 14001環境、ISO 45001労働安全その他です。関心を持っていることは、ISO規格の解釈もさることながら、組織のマネジメントシステムを改善することです。ISO(International Organization for Standardization:国際標準化機構)の提案している品質、環境、労働安全そして財務のマネジメントシステムを、組織の本来持っている仕組みに上手く融合させて、組織に成果をもたらすようにさせることがより強い関心事です。いままでに多くの企業を見させていただきましたが、この4つのマネジメントシステムの有効活用はなかなか難しいものです。私自身も30年前には、セイコーエプソン英国工場長として1,000人余りの組織の運営をしてきましたが、その難かしさはいやという程経験しました。イギリス工場長時代には、ISO 9002(1987年当時ISO 9001、9002、9003という3規格があった)の認証を受けましたが、その話はずーっと後になります。
私は現在(一社)日本品質管理学会の理事・標準委員会委員長として、日本の戦後復興のカギになったといわれているTQM(Total Quality Management:総合的品質管理)の普及に携わっています。品質立国日本と称された1970年から80年代にかけて産業界全体で実践してきた物作りの経験と知識は、バブルが崩壊した後の30年の間にその輝きを失ってしまいました。このもの作りに極めて有用な思想、活動、方法を含んでいるTQMを再度産業界に蘇えらせることができないか、その効用を訴え続けていきたいと思っています。
よく品質第一とか、安全第一とかいわれますが、組織にとって一番大切なことは利益です。利益を得ることが出来なければ組織は死に絶えてしまいます。問題なのは利益を得る方法、仕方です。社会が望む安全で環境に配慮した経営からの利益でなければ、企業はいつしか社会からソッポを向かれてしまうでしょう。しかし、生まれたばかりの組織に安全第一といっても聞く耳を持たないでしょう。まずは、品質第一でお客様の評価を得たい、そうでなければ製品が売れなく、利益もとれなく行き詰ってしまう、という危機感を経営者はもっているのではないかと思います。
ではこれから少し長くなりますが、私の50年に及ぶ仕事の遍歴と、その都度のISO、あるいはTQMとの関わりついてお話していきたいと思います。
2.ISOとの最初の出会い
私の最初のISOとの出会いは、1968年大学を卒業して社会人生活を送り始めた2、3年目の頃のことです。当時、私は諏訪精工舎(株)の工作課という部署で時計部品を作る治工具の設計をしていました。設計業務の一つに、ネジ類をJIS規格から選択するという仕事がありました。会社ではできるだけ標準化された要素を使って設計することが決まりになっていましたので、JIS規格一覧からネジの選択をすることは常套の方法でした。ある時、JIS規格のネジの代わりに、ISO規格のネジを使用するように、との指示が上司から一斉に課員に伝えられました。
なぜそんな指示が出たのかといいますと、当時のJIS規格ネジのピッチとISO規格ネジのピッチが異なっていたからです。ネジの外径が同じでも螺旋のピッチが違うとお互いに交換できません。専門的にいうと互換性がない、ということになります。戦後、日本製品は一時粗悪品の烙印を押されましたが、その頃(1970年代初め)になると、品質は良く値段も安いということで、日本製品の海外への輸出品は大いに評価され、品質立国日本のイメージが定着し始めていました。そんな時期に海外で何かの折に日本製品の裏蓋を外したりした際に、ネジをなくした顧客が手元にある自国製の同外径のネジを組み込もうとしても組み立たらないということが起きたのです。当然海外からは、日本は国際規格に合わせて製品を作るべきである、という苦情が寄せられました。
しかし、いったんJIS規格で作られたネジをISO規格に変更することは大変なことでした。ネジは1種類や2種類ではありません。ネジの規格を変えるということは相手となるナットの規格も変えることを意味します。正確には知りませんが、何百種類というネジやそれの相手となるナットの切り替えは、大げさに言うと国家事業の一つとなりました。ネジ螺旋寸法が変わると、ネジを作るダイスという機械工具も変えなければなりません。また、旧規格のネジを使用している販売済製品はある程度の余寿命を持っていますから、ネジはサービス部品として契約している期間は保管しておかなければなりません。日本のメーカーは、7,8年間、新旧2種類のネジを保管し管理することを強いられることになりました。
この経験は日本中に国際標準の重要性を知らしめました。一度国際標準と異なった規格を選ぶと、鎖国時代はいざ知らず、輸出で生きる国に取っては致命的な問題を引き起こすということを、実体験を通じて多くの日本人の脳裏に強烈に焼き付けることになりました。標準化は、この互換性確保のほか、単純化する、技量継続をしやすくするなど多くのメリットをもった人類の知恵です。私自身それまでISOのことはよく知りませんでしたが、この出来事を通じてISOが多くの工業製品の標準を制定しているということを知りました。
ISOは1926年にはISA(万国規格統一委員会:ISOの前身)として創設されました。それより早く、IEC(国際電気標準会議)が第一次世界大戦前の1906年に創立されています。それに対して、日本では1949年工業標準化法が定められ、それに基づき日本工業規格(JIS:Japanese Industrial Standard)制度が創設されました。その前1946年にはJISC(Japanese Industrial Standards Committee 日本工業標準調査会)が発足し、ISO加盟への準備をしており、1952年にISO加盟が認められました。したがって、欧米に対して日本の標準化は約半世紀の遅れがあります。工業標準化法は鉱工業製品の品質の改善、生産、流通、使用又は消費の合理化のため、JIS制度とJISマークの運用を定めた法律です。JISは政府主導の標準化活動を促進し、戦後の日本の製造業の発展に大きい影響を与え、生産性の向上と国民生活の改善に貢献しました。
日本では、戦前軍事における標準化が盛んに行われました。第二次世界大戦後は、国土が荒廃した中で,産業の復興,生産力、技術力の増強を進めることが最優先課題でしたが、戦前に作った多くの規格を整理することが国としての標準化に関する最初の仕事でした。1950年代に入りますと、工業化に向けて多くの企業が立ち上がり、大量生産の時代に入っていきます。この時代を含め、その後JISは順調に運用され、2016年には約10,000件を超える規格が制定されるに至りました。しかし、欧州の長い標準化の歴史の中では、欧州各国の標準数は日本を上回る数であり、ISOの規格数もJISの約2倍、20,000件を超えています。
3.TQMとの出会い
現在、私は日本品質管理学会の理事をしており、標準委員会の委員長を拝命しております。2019、2020年の2年にわたってTQMの日本産業界への再普及を職務と心得て邁進していきたいと思っています。
私が25年務めた当時のセイコーエプソンの様子を少し詳しく述べさせて頂きます。諏訪精工舎はセイコーとエプソンが合併して、セイコーエプソンという社名の会社になったのは1985年ころでした。長野県のほぼ中心に位置する松本に在る諏訪精工舎の子会社信州精器がエプソンの前身です。そこで初めてTQC(TQC → TQMの名称変更は1995年)を実地に勉強しました。
3.1 信州精器の業務
信州精器(株)は、当初SEIKO腕時計の基板である地板、屋根に相当する受および時間を表示する伝達機構を担う番車等の部品を製造する会社でした。信州精器では物の寸法を呼ぶときに1は1/100㎜を意味していました。それくらい非常に細密な仕事をする会社でした。当時、大学教授からは小さいから精密だとは言えませんよ、といわれたことがあります。反論すると、「全ての腕時計部品を20倍で作り、しっかり作動するか確認してみなさい。決してうまく動きませんよ」と言われてしまいました。そのとおり実施した所、その先生のおっしゃる通りうまく作動しなかったことを覚えています。100±1の厚みは、実は1㎜±0.01㎜ですという話をするときに、なぜか思い出す逸話です。
腕時計部品の主な工程は、真鍮を原料荒抜き、原料仕上げ抜き、縦穴明け、横穴明け、縦ネジ切り、横ネジ切り、表面切削、裏面切削、外周切削する等のプロセスを経る機械加工でした。加工精度は機械で保証できるようにし、夜間は保安業務と工程間部品移動の為の要員1人を置き、24時間無人稼働を実現しました。その部品製造の機械は当初スイスからの輸入機械でした。当時、スイスはなぜか自国で開発してきた腕時計部品の加工機械の輸出を認めていたのです。