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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.337 ■□■
― つなげるツボ動画版はじめました ―
*** ナラティブ内部監査41***
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このシリーズではナラティブ内部監査の新しい物語作りについて
発信させていただいています。
物語を作るには「起承転結」に沿って行うことが良いという話を
進めています。前回は最初の「起」についてお話ししました。今
回は「承」ですが、起を受けて物語が進展していく様子を書くこ
とになります。テーマに関しての様子、今に至った過去の出来事
などを書きます。
■ ナラティブ内部監査の承 ■
ナラティブ内部監査の承は、起において何か課題を感じた時に展
開する物語です。もし、起の段階でなにも問題を感じなかったら
新しい物語はできないので、次のプロセス(活動)に移って内部
監査を行うべきです。いつまでも起と承の間に立ち止まっている
のは時間の無駄になります。
「これはおかしい」と感じたところから承がスタートします。こ
こでおかしいと感じるとはどのようなことなのでしょうか。以下
の話は飯塚先生(東大名誉教授、現JAB理事長)からの受け売り
です。
「いきなり拍手をして,どちらの手から音が出たかと聞くのです。
場面がガラッと変わります。相手には禅問答を知っていますか,
と聞きます。『双手を打って隻手の声を聞く』、二つの手を打っ
て,片方の手の音を聞くという禅問答がある、と言います。禅問
答では公案といいますが,このお題は,物事はすべて1つでは成
立しないとか,ものの見方は多面的だとか,いろいろディベート
できるのです。」
■ ドラッカーの公案 ■
「ドラッカーのマネジメントという著書に次のような話が披露さ
れています。誰もいない森で木が倒れて音がした。それを音がし
たといえるかという公案です。この問答の意味は,たとえ誰もい
なくても,絶対的な存在とか絶対的な真実,事実というのがある
という考え方もあれば,誰かに認知,認識されていなければ無き
に等しい,意味がないという考え方もある,つまりは絶対的認識
論,相対的認識論についてのお題です。
ドラッカーを読んだ方は,微かに覚えていらっしゃるかもしれま
せん。あの原書800ページにも及ぶ“Management”という大部の
本の38章だったか,確か「データと情報」という章の冒頭のつか
みに使われていました。この章の趣旨は「情報とは意味のあるデ
ータ(事実)」ということです。」
ここまでが飯塚先生の記事からの引用です。前半の両手打ちの話
は今回の承には関係ありません。後半の禅問答への導入部分とし
て面白い公案なので引用しました。
ここで考えたいのは後半のドラッカーも著書で紹介している「誰
もいない森で木が倒れた」という公案についてです。物理的には
音がしているはずですが、誰も聞いていなければ音がしたとはい
えない、ということについてです。
すなわち、絶対的認識論では音はしているということになります
が,相対的認識論ではだれも気が付かなければ音は無かったこと
と一緒である、という話です。
■ 絶対的認識論と相対的認識論 ■
プロセスの活動においても、絶対的認識論では問題があると言え
ますが、誰も気が付かなければ、すなわち相対的認識論では問題
はなかったとして現状は誰にも気が付かれずにそのまま行われる
でしょう。
プロセス(活動)においては価値が移動します。プロセスは,原
理的には(現実は違うでしょうが)価値の受け取り側が「ウン」
と言わなければ受け渡しはできません。内部監査で確認したいこ
とはいろいろありますが、一つは製品・サービスの品質の確認で
す。製品・サービスの品質の良し悪しは、まずは受け取り側が決
めることが原則です。ISO9000にある品質マネジメント7つの原
則の一つ「顧客満足」の原理です。禅問答との関連で言えば,内
部監査は,相対的認識論に立っているといえます。品質に絶対的
な良さはない,それは相対的に認識されるものだ,ということで
す。
■ 内部監査で問題に気が付く ■
以上のような話から、いま内部監査している活動に問題はあるの
かどうか、すなわち公案で言えば「音がした」と気が付くかどう
かという事が、ここでの議論の終着地です。ここには2つの必要
な要素があります。一つは音に気が付く人がいるかどうか、もう
一つは人が居るとしてその人にどの程度の聴力、すなわち感性、
感受性があるのか、という要素です。
内部監査には、音に気が付く人の存在は明確です。その人とは、
勿論、内部監査員のことです。ではもう一つの要素である感性、
感受性に関してはどうでしょうか。
次回は承に行く前提である問題に気が付くということについてお
話しします。