Author Archives: 良人平林

閑話休題 品質不祥事9 | 平林良人の『つなげるツボ』

—————————————————————
■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.386 ■□■
― ISOマネジメントシステムのテクノファ ―
― つなげるツボ動画版はじめました ―
*** 閑話休題 品質不祥事 9 ***
—————————————————————
しばらく(4回)余談として、トヨタの「ジャストインタイム」が
どのように考えられてきたか、大野耐一さんの講演録からお話をし
てきました。
さて、本題に戻って、381号続きの品質不祥事のお話しです。まず
は、(一社)日本品質管理学会(JSQC)で作成してきました、「品
質不正防止TR」(JSQC-TR-01-001)のパブリックコメントは、
11月26日締め切られました。

■■ パブリックコメント ■■
(一社)日本品質管理学会には、新しい規格を作成するときの手順
として「パブリックコメントを募集する」という手続きがあります。
今回は2021年3月から約1.5年かけて作成された「品質不正防止
TR」の原案が10月27日~11月26日まで一般に公開されました。
この制度は学会メンバーだけでなくすべての方が原案に対して意見
が言える制度です。結果74件のコメント(意見)が寄せられまし
た。
学会では審議委員会を設置して、寄せられたすべてのコメントを審
議にかけ、原案をより良いものにする活動に入っています。

■■ 品質不正事例 6 ■■
You tube「超ISO」の品質不祥事シリーズに公開していますが、品
質不祥事を起こした企業の第三者委員会調査報告書の6回目につい
てお話しをします。品質不祥事の「第三者委員会調査報告書」に対
して我々が興味を持つのは、1)どんなことが起きたのか、2)なぜ起
きたかの2点です。「第三者委員会調査報告書」は少ないものでも
100ページ、多いものだと1,000ページを超えますので、ここでは
2)に焦点を絞って報告書に記載されたままを簡潔に紹介します。な
お、「第三者委員会調査報告書」の該当部分をそのまま記述している
ため、文章のつながり、整合、体裁などが統一されていないところ
がありますが、ご容赦ください。

事例6
A株式会社  2015/10発覚 (過去10年に遡上)
<何が起きたのか>
杭工事で品質データの転用や加筆などの改ざんが行われたことが発
覚し、調査の結果、過去10年に請け負った物件3,040件のうち
2,376件の調査が終わった段階で、266 件のデータ偽装が確認され
た。
現場の担当者個人の資質に帰するべき問題ではなく、組織全体の品
質保証意識の欠如が問題で業界全体に蔓延した悪癖であると指摘さ
れた。

■■ どうして起きたのか ■■
<原因の究明を行った結果>
データ流用の原因・背景としては、大きく3つに分けて考察するこ
とが妥当である。すなわち、杭工事現場での問題点として、1)デー
タの適切な取得及び保管ができていない点、さらに、そのような
場合に、2)データがないことを申告せず、データ流用によって施
工記録を形式的に整えることで良いとしている点、がある。
以上に加えて、データ流用は本件マンション以前にA株式会社が
施工した杭工事においても確認されているところ、3)長年かつ多
数回にわたってデータ流用を発生させてきた組織の管理体制・教
育体制の問題点が指摘できる。

1) 不適切行為(施工データ欠落)
(1) 計測装置操作に関する要因
(2) 現場責任者と作業員のコミュニケーション不足
(3) 施工データの管理に関する要因

2) 不適切行為(データ欠落)への対応
(1) 施工データの管理手順未整備
(2)データ欠落時の対応ルールの不徹底
(3) 組織の管理体制の問題

3) 施工データの重要性に対する現場責任者らの意識
(1) 現場責任者らにおける施工データ軽視の風潮
(2) 現場責任者がデータ欠落を報告しにくい環境
(3) 施工データの取扱の実態に関する認識不足
(4) 社内での情報共有の体制に関する問題
(5) 人員の固定化の問題

余談4 トヨタ | 平林良人の『つなげるツボ』

—————————————————————
■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.385 ■□■
― ISOマネジメントシステムのテクノファ ―
― つなげるツボ動画版はじめました ―
*** 余談4 トヨタ ***
—————————————————————
「品質不祥事」(You tube「超ISO」)の途中で、余談と称してトヨ
タ創業の頃の話をさせて頂いています。戦前の創業者たちの困難に
もめげず、果敢に挑戦をしていった若きトヨタの物語です。50年も
前に私がトヨタの大野耐一副社長(故人)の講演で直接聴いた話を
当時の講演録からお伝えします。

■■ 豊田紡織に入社  ■■
私は昭和7年(1932年)の春、名古屋高等工業の機械科を出て、
豊田紡織に入社をしました。トヨタの社祖ともいうべき豊田佐吉翁
の創立になる会社でした。
 当時の世相、その2年前にニューヨーク株式の大暴落をきっかけ
に起きた世界的な経済恐慌の余波が日本経済にも根強く残り、不況
で失業者が続出していました。殺伐とした社会情勢のなかで、犬養
木堂首相の暗殺、すなわち5.15事件が起きた年でもありました。
 豊田紡織への入社の動機は、専攻した機械の勉強を生かすことで
したが、なにしろ当時は就職難の世の中、私の父が豊田喜一郎氏の
知合いであった関係上、豊田紡織に入れてもらいました。

 その豊田喜一郎氏と自動車の世界で遭遇できるとは、私自身、予
想もしていなかったのですが、戦中の昭和17年に豊田紡織が解散
したために、翌18年、トヨタ自工へ転籍することとなり、当時、
戦況激しいなかで国産自動車の製造に邁進していた豊田喜一郎氏の
傘下に入るにいたったという経緯です。
私にとって紡績の経験は貴重でありました。自動車であろうが、
紡績であろうが、生産現場における人間と機械の関係は基本的には
共通しています。「物をつくる」ことを根幹となす2次産業に属す
る私企業にとって、原価低減が経営の最大課題であることは、洋の
東西、そして昔も今も変わるところはありません。
 日本の紡績の世界は、自動車の世界よりはるか昔、戦前から、世
界経済の荒波にもまれていました。それこそ、イギリスのランカシ
ャーに追いつき、ヨークシャーを追い越せといった具合に、国際競
争力を強めるための原価低減策がつぎつぎと実現されていました。
 そういったわけで、日本の紡績業は、すでに戦前、世界的な視野
をもって、生産現場の合理化に取り組んでいましたが、日本の自動
車産業は歴史の浅い産業でした。戦前から戦中、豊田喜一郎氏を先
頭とする自動車技術者および自動車経営者たちが、国産自動車の量
産を企てましたが、残念ながら、それは豊田喜一郎氏が心に描いて
いたものではありませんでした。相当量のトラックをつくるまでに
はなりましたが、念願の乗用車の量産にはほど遠い状況でした。

■■ アメリカに追いつけ  ■■
戦後まもなく、当時のトヨタ自工社長の豊田喜一郎氏は「アメリ
カに追いつけ」と私どもを叱咤激励しました。
アメリカに追いつけの願いが現実の可能性に通じていくのは、戦
後の昭和20年代後半からでした。小型乗用車の生産制限解除およ
び自動車の公定価格の廃止はいずれも昭和24年の10月であり、全
面的な配給統制の撤廃、自由販売制への移行は25年4月でした。
しかし、不運なことに、豊田喜一郎氏は労働争議の責任を取って
社長の地位を退かれました。私がここで言いたいのは、私が最初に
入った豊田紡績、つぎに移ったトヨタ自工のいずれもが、当時、規
模こそ小さかったが、内には世界的レベルを感じさせる雰囲気があ
ちこちに見られたという事です。昭和7年に私は豊田紡績へ入社し
ましたが、その2年前に豊田佐吉翁は既に不帰の人となっていまし
た。この会社には、豊田佐吉発明王の偉大な遺風が残っていて、無
意識のうちに世界的なレベルがいかなるものであるかを知り得たよ
うに思います。

■■ 必要な品物が、必要なときに、必要なだけ  ■■
この豊田喜一郎氏が、あるとき、豊田英二氏(現トヨタ自工社長)
にこのようなことを言ったというのです。「自動車事業のような総
合工業では、自動車の組立作業にとって、各部品がジャスト・イン・
タイムにラインの側に集まるのがいちばんよい」と言ったというの
です。
「ジャスト・イン・タイム」とは「必要な品物が、必要なときに、
必要なだけ」ライン・サイドに到着するつくり方で、トヨタ生産方
式の基本思想をなしていること
は、すでに皆様もご承知のとおりだ
と思います。
豊田喜一郎氏の発した「ジャスト・イン・タイム」の一言が、ト
ヨタマンのいく人かに一種の啓示を与えました。私もこの言葉にと
りつかれた1人でした。私はといえば、最初から現在にいたるまで、
とりつかれっ放しであると言って良いと思います。「ジャスト・イ
ン・タイム」なる言葉自体、当時としては目新しかったが、引きつ
けられたのはその中身でした。必要な部品が、必要なときに、必要
な量だけ、生産ラインのすべての工程の脇に同時に到着する光景は、
想像するだけでも楽しいし、刺激的でした。
それは夢のようなところがありましたが、けっして実現不可能と
言い切れないところがありました。実施できそうであるが実際には
やれない、あるいは、非常にむずかしそうだが、けっしてやれない
わけではない。いずれの場合も、人を刺激するチェレンジ溢れる言
葉でした。自動車に素人の私ではありましたが、当時の喜一郎氏の
発言に私は雷に強く打たれたように啓示を受けたのです。
豊田喜一郎氏という、先見性では比類のない人物にめぐりあうこ
とができたのは、幸運と言わざるを得ませんが、私の身近には、い
つも、このような世界的に通用する「普遍の世界」が開かれていた
です。

余談3 トヨタ | 平林良人の『つなげるツボ』

—————————————————————
■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.384 ■□■
― ISOマネジメントシステムのテクノファ ―
― つなげるツボ動画版はじめました ―
*** 余談3 トヨタ ***
—————————————————————
トヨタの大野耐一副社長(故人)の講演録(1970年)からお話を
させていただいています。「品質不祥事」(You tube「超ISO」)に
ついて話しをしていますと、気が滅入ってきますので、話しを少
し変えさせていただいています。

■■ ジャスト・イン・タイム  ■■
昭和8年に豊田喜一郎氏は国産大衆車開発の方針を打ち出しました
が、そのなかの一項に「生産の方法は米国式の大量生産方式に学ぶ
が、そのまま真似するのでなく研究と創造の精神を生かし、国情に
合った生産方式を考案する
」とあります。これこそ喜一郎氏の「ジ
ャスト・イン・タイム」発想の原点であると思う。

喜一郎氏が新たに取り組んだ自動車の世界は、裾野の広い総合産業
であり、先を行くアメリカの自動車産業とのギャップを埋めるため
に、先ずいかにして基礎技術を習得するか、次にはどのような生産
技術を個別にマスターし、生産の仕組みを作っていくかに進み、そ
の過程で日本式の製造技術、言い換えると生産システムを探求しな
ければなりませんでした。
喜一郎氏は、基礎技術の習得から、生産技術をものにし、次なる生
産システムとして「ジャスト・イン・タイム」方式を頭に描いてい
たのです。「ジャスト・イン・タイム」こそ、トヨタ生産方式の出
発点であり、しかもシステムの骨格を成している事からも、日本の
オリジナリティを追求するトヨタの思想の流れを読み取ってもらえ
ると思います。

■■ フォード・システム ■■
フォード・システムは、1908年から1913年までの5年間に試行錯
誤の末、開発されたと言われています。フォード・システムのデビュ
ーは、これまた量産車のシンボルともいうべきT型フォードの発売
とほぼ時を同じくしています。フォード式生産システムとトヨタ生
産方式のどこが違うかを明らかにするために、まずフォード式生産
システムとは何であるかを具体的にみてみます。

誰がいちばん的確に語っているのだろうか。フォード・システムは
実際には自分たちがやったのだ、と豪語しているチャールス・E・
ソレンセンというフォード社の元社長が、開発の経過を自ら書きと
めています。この人はもともと生産部門のリーダーで、ヘンリー・
フォード1世が倒れ、2代目のエドセルも退いた後を継いで、フォ
ード社の勢いを保ち、現在のヘンリー・フォード2世に橋渡しをし
た重要な人物です。
彼の著書は示唆があふれていて、フォード・システムの開発、着手
の光景が手に取るように分かるので、彼の著作からその部分を引用
してみます。

部品を(組み立てる場所に)運ぶことは、車を組み立てることより
難しい。我々はいわゆる足の速い部品だけを運び上げることにして、
この問題を徐々に解決していった。エンジンや車軸のような大きな
部品は大きいスペースを必要とした。このスペースをとるために、
小さくまとまって扱いやすいものは、構内倉庫に残しておくことに
した。次いで、われわれは倉庫部門と相談し、梱包して印をつけた
1組の部品を一定時間ごとに3階(組立ライン)に運び上げること
にした。
このようにして部品の扱いを簡単化したので、事態は非常にすっき
りしたものとなった。しかし、私はどうもこの方法が気に入らなか
った。このとき、次のようなアイデアがフッと浮かんだのである。
「もしシャシーを移動したら―まず工場の端からシャシー・フレー
ムを動かし始め、これに車軸と車軸を取り付け、次に部品倉庫をシ
ャシーの所へ持ってくる代わりに、車軸と車軸の付いたシャシーを
部品倉庫の中を通過させたら―組立作業は容易で簡単にでき、速度
も速くなるであろう」というのである。私は建物の一方の端に必要
とする部品を置き、シャシーの移動する線に沿って次々に部品があ
るように床の上に部品を並べさせた。車軸と車輪を取り付けるまで
はシャシー・フレームをソリに乗せ、シャシーの前の部分にロ-プ
を結び付けて、これを引っ張って組立作業をした。それから取り付
けた車軸を利用してシャシーを動かし、部品の間を通過させて組立
作業の実験をした。この動く組立ラインの実験をやりながら、一方
では、部品をシャシーに素早く取り付けることができるように部品
の組立作業(ラジェーターにホース類を取り付けることなど)を行
った。これをシャシーに素早く取り付け、更にステアリング・ギア
とスパーク・コイルを取り付けた。『フォード・その栄光と悲劇』
高橋達男訳より)

フォード・システムの流れ作業をつくり上げるための最初の実験風
景です。この流れ作業の基本形は、世界の自動車企業すべてに共通
のものです。ボルボ方式などのように、1人の人間がたとえばエン
ジン全体を組み上げていくやり方もありますが、主流はフォード式
の流れ作業です。ソレンセン氏の描写風景は1910年前後のことで
すが、その基本パターンは当時もいまも変わりはありません。

トヨタ生産方式もフォード・システム同様、流れ作業を基本にして
いますが、その違いは、ソレンセン氏が部品の置き場所の倉庫にあ
れこれ腐心していたのに比べ、トヨタ式では倉庫が不要なのです。
「ジャスト・イン・タイム」では、必要な部品が、必要なときに、
必要な量だけ、最終組立工程の各ライン・サイドに到着します。

余談2 トヨタ | 平林良人の『つなげるツボ』

—————————————————————
■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.383 ■□■
― ISOマネジメントシステムのテクノファ ―
― つなげるツボ動画版はじめました ―
*** 余談2 トヨタ ***
—————————————————————
「品質不祥事」についてお話をしています。
You tube「超ISO」の品質不祥事シリーズに沿ってお話をさせてい
ただいておりますが、企業の暗い部分だけでは気が滅入ってしまい
ますので、前向きでチャレンジしたくなるような話を本筋から離れ
てさせて頂こうと思います。50年も前に聴いたトヨタの大野耐一
副社長(故人)の講演録からお話をさせていただきます。

■■ 豊田喜一郎氏の話-バラックでいい  ■■
昭和45年当時、私が諏訪精工舎(セイコーエプソン前身)に
勤務していた頃、当社に講演で来られた大野副社長から聞いた
話をそのままお伝えします。
大野氏は「喜一郎氏は豊田佐吉翁と並ぶ2傑技術屋だ」と言っ
ていました。大野氏はその豊田喜一郎氏が「品質を保つために
いかに良い機械を求めたか、そしてそれらを使いこなすために
いかに努力をはらったか」を次のように話しています。
豊田喜一郎氏が書き残した回顧録からですが、昭和 10 年ころ
の話です。

自動車を作る機械は、それ相当のマシンツールを採用する事に
よって効果を上げますが、それをいかに安くするかという事が
問題です。紡織機の方は種類が多く相当複雑化していますが、
自動車の方は簡単であります。自動車の工作機械は専門的な機
械ではありますが、ファインボーリングマシン、ホーニングマ
シンなどの外国の機械をもってくれば大して間違いはありませ
ん。しかし、外国より進歩したマシンツールを採用しなければ、
外国に負けない優秀で安い自動車は出来ない事は明らかです。

工場建物はバラックでも良いから、機械にはどのくらい金が掛
ってもよいから最高の機械を買入れる事にしました。そうとう
高い機械を何台も買うことになりますが、これは致し方ありま
せん。機械を買う事を躊躇するなら、始めから自動車事業に手
を着けない方がましです。それですから機械にとても金をかけ
ましたので、工場はバラック作りにせざるをえず周りから笑わ
れました。いかに笑われても不要な所に金を使ったら幾ら金が
あっても足りません。少しでも無駄も省いて良い機械を買わな
くてはなりません。機械は余程良く調べて選択しないと、うっ
かり間違った機械を買ってしまう事になります。間違った機械
を買わないように、わざわざ米国まで出張して調べる位の事は
当然の事でした。

■■ どのように使いこなすか  ■■
以下は喜一郎氏の書かれた「トヨタ自動車が今日に至るまで」
(昭和11年9月発表)」からのポイントです。
高級機械を買っても、それを満足に使いこなせるかが次の問題
でした。いかに機械が良くても、「ツール」が悪ければ正確な
ものを大量に安く作れません。そこに大量生産に優れたツール
の設計が必要になり、この設計と製作に3~4年かかりました。
 高価な機械を買ってからおよそ3年間、何100人という人が
一生懸命に働いて、自動車1台も市場に出せなかったので、大
概の株主は自動車が出来るのかどうか心配し始めました。また
自動車を生産することが出来れば、必ず儲かるということなら
ば良いのですが、最初の数年間は損をする事がはっきりしてい
る訳で、本事業は誰にもダメではないかと思わせる状況でした。
こんな事業を向う見ずにやる者は余程アホーな人だと私自身
(喜一郎)も思っていました。私だけでなく、多くの経営者は
大概そう思っていました。余程うぬぼれの強い人間か、または
世人におだてられて向う見ずにやる人間の事業の様に社会には
思われていたのは当然の事です。
しかし、自動車製造事業法が出来て変わりました。当然儲かる
事業を当然な方法でやっていくよりも、誰もあまりやらない事
業をものにしてみるところに人生の面白味があるもので、でき
なくて倒れたら自分の力が足りなかったのだ。潔くよく腹を切
ったらよいではないか。出来るところまでやってみよう。どう
せやるなら世人の一番難しいという大衆自動車を作ってみよう、
という思いからやったのです。

■■ ボデーの制作 ■■
日本で自動車工業が発達しない一つの原因は、ボデーの製作で
した。米国のように多量生産が出来ないのです。日本人は器用
で、手叩きで相当のものを作りますが、大量生産には何として
もプレスでなければなりません。ある人は外国人を雇用したら
と言いますが、それでは米国式をそのまま輸入したことになり、
面白くありません。何とか日本独特の方法を講じる必要があり
ます。
このプレス領域の工業がどの程度まで進んでいるのか、一通り
見ておく必要があると思って、東京地方の工場を見学しました。
その時、偶然にもプレスでフェンダーを押している杉山鉄工所
を見学しました。他にもこのような工場が有るかもしれません
が、とにかくボデーの型を作ってみないかと話をしてみました
ら、そうしたらやってみようという事になって、この領域に思
いも寄らぬ知遇を得ました。
型の製作については始めてなので、色々と製作方法を研究する
必要があります。何と言っても型を作る機械が無いので止むを
得ず手仕上げでやらなくてはなりませんでした。外国では型作
りの機械が有り、型の製作を専門的に引受ける会社があります
が、日本ではそうは行きません。最初は手作りで製作する事に
して、おおよそ1年半の後に機械により型を製作する事が出来
ました。この方面の研究は、今後相当しなくてはならないでし
ょう。
 次に課題になったのは、プレス用薄鈑の良し悪しです。鋼板
薄板の極上物を使用すれば型の製作、プレスも大変楽になりま
す。我国でも金属工学の発展で段々良いものが出来る事と思い
ます。
塗装及内装は、日本にも相当経験を持っている人が居るので心
配する必要はありません。また、組立についても設備と段取り
と熟練工が必要ですが、職工の訓練を含め、むずかしい問題で
はありません。日本人は非常に手先が器用ですから、むしろ外
国車よりも安くて良いものが出来るのも近い将来の事と思いま
す。

余談1 トヨタ | 平林良人の『つなげるツボ』

—————————————————————
■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.382 ■□■
― ISOマネジメントシステムのテクノファ ―
― つなげるツボ動画版はじめました ―
*** 余談1 トヨタ ***
—————————————————————
「品質不祥事」についてお話をしています。
You tube「超ISO」の品質不祥事シリーズに沿ってお話をさせてい
ただいており、前回まで第三者委員会調査報告書について、なぜそ
んなことが起きるのかについて連載をしてきました。しかし、こん
な話を5回も続けていると、不愉快になり、頭が疲れますので、今
回から2,3回余談をさせて頂こうと思います。

■■ トヨタの話 ■■
急にトヨタのことを思い出しました。多分、品質不祥事の話は組織
内の負の側面ばかりで、日本は早くこんな状況から抜け出さなけれ
ばならないのにと思う感情が私の頭を占め、真逆な話をしたいと思
うようになったのだと思います。
私が諏訪精工舎(セイコーエプソンの前身)へ入社したころ(1970
年頃)、トヨタの大野耐一さん(当時副社長、故人)が講演に諏訪
本社に来られました。そこで、トヨタ自動車が市場に自動車を投入
できるようなるまでの苦労話と工場運営の神髄について直接話を聞
く機会に恵まれました。

トヨタの自動車は幾多の人々の苦心惨澹たる研究と多くの知識の集
合と長い年月に亘る努力と、さらに幾多の失敗から生れ出たもので
す。日本で果して大衆車が生産出来るであろうか、昭和初期には多
くの人々は殆ど不可能であると考えていたそうです。特に自動車分
野に経験のある人々は痛切にそのように考えていたそうです。

昭和8年、豊田喜一郎氏は市場投入の準備が出来たとして、震災10
周年記念日(9月1日)に満を持して、会社として自動車製作に着
手する事を正式に発表しました。多くの人々はいかに無謀であるか
を陰で言っていました。或る人は直接注意をしてくれました。自動
車工業のいかに難事業であるかという事を社員も聞かされました。
しかし、豊田自動織機製作所の力をもってすれば、必ず可能である
と当時の経営者は確信していました。しかし、紡機と違った幾多の
難関があり、容易に実現させる事はむずかしいと思っていましたか
ら、数年は道楽でやって居るのだと言う名目の下で苦労を続けてい
ました。

ところが、当時日本政府は、国産自動車は国力増進のうえでは避け
て通れない産業であるとして、産業振興のため「自動車製造事業法」
を作りました。いよいよ自動車製造に着手すると正式決定してから
の3年間、大野さんが述べたことを当時の記録から綴ってみます。

■■ 金属材料が命 ■■
自動車の製作に当って何が1番大切であるかというと。言うまでも
無く材料です。材料問題を解決せずして自動車の製造にかかる事は、
土台を作らずして家を建てる様なものです。当時、日本でも製鋼業
は相当進歩していましたが、自動車に最も適した材料を専門に作っ
てくれて、共に辛抱してトヨタの思う様な材料を提供してくれると
ころはなかなかありませんでした。材料と共にエンジンの改良も必
要です。エンジンの進歩と共に材料を改良しなくてはなりません。
エンジンの研究には切っても切れぬ材料の製作は、自動車からは余
分な仕事の様にみえますが、トヨタは何としても材料の製作を自分
でしなくてはならない立場にありました。いかにエンジンの製作を
良くしても、適材を適所に使わなかったら寿命も短くなり、値段も
高くなり、性能も悪くなります。

材料の製作が出来なくては自動車の研究も出来ません。そこで、金
属材料工学の第一人者の本多光太郎先生に教えを求め仙台の東北大
学へ行きました。早速先生に尋ねましたところ、「日本の現在の力
で充分出来る」、「外国人を雇う必要はない」と言われたので、大
いに安心して直ちに製鋼所の設立にかかりました。

当社を見学に来られる方から、時々鋳物は何割合格しますかと言う
ご質問を受けますが、鋳物と言うものは普通95%位の合格率がなく
ては営業が成り立ちません。自動車を造ろうというものが鋳物の合
格率を心配される様では、情けないことです。そこで、工場の者を
大いに督励し、鋳物位が出来なければトヨタの恥だと全員で頑張り
ました。しかし、モールディングマシンを使用してシリンダーを
90%以上の合格にするまでには、多くの失敗をしました。

結果からみて、1年余りで成功したのは、それまで多年モールディ
ングマシンを使用していた事と、電気炉を用いて紡機の薄物鋳物を
やっていたお蔭だと思います。それでもシリンダー5~600個はつ
ぶしてしまいました。同じ物を1,000個作ると、大概の職工は手が
馴れて間違いの無い物を作る様になります。しかし、最初の数100
個は手が定まらないので捨てる位の覚悟は必要です。

■■ トップがここまで現場を知っているのか ■■
ここまで、当時の記録を読んで、「副社長がここまで現場を知って
いるのか」と強く感銘します。品質不祥事の報告書で「管理者が現
場に行かない。」という多くの組織の記述を見るにつけ、隔世の感
がします。

ここでお願いです。日本品質管理学会の「品質不正防止TR」原案
が出来上がりました。どなたでも提案できますので、パブリックコ
メントへの応募をお願いします。