Category Archives: つなげるツボ

トヨタ物語 6 | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.389 ■□■
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*** トヨタ物語 6 ***
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品質不祥事も事例7までお伝えしましたので、品質不祥事から
離れてまた「トヨタ物語」へ戻っています。トヨタ創業期の話
と近年の品質不祥事の話には大きなギャップがあり、この違い
はどこから来るのか、考えさせられます。下記の記述は1970
年頃に私が聞いた大野耐一氏の講演記録からです。

■■ ジャスト・イン・タイム ■■
私は「ジャスト・イン・タイム」という豊田喜一郎氏の言葉に
強い啓示を受けたのだが、その後、この発想の原点についてあ
れこれと想像力を働かせてきた。むろん、直接聞けなかったか
らわからないが、すでにアメリカで大発展を見せていた自動車
の生産方式を凌駕するものはないかと、考え抜いていたことは
確かであった。
「ジャスト・イン・タイム」とは、じつにユニークな発想であ
る。いまでさえ容易に理解されないことを考え合わすと、喜一郎
氏の豊かなイマジネーションに敬意を表せざるをえない。
「ジャスト・イン・タイム」の発想のユニークさを考えるとき、
佐吉翁の「日本人の絶対の力のみを以て」に共通する「負けじ
魂」みたいなものを感じ取れる。昭和27年に喜一郎氏は亡く
なられたが、私としては「ジャスト・イン・タイム」は、豊田
喜一郎氏の遺言であったと考えているのである。

■■ 負けじ魂に学ぶ ■■
豊田佐吉翁も豊田喜一郎氏も、強烈な負けじ魂を共にもってい
たように思う。佐吉翁はむき出しの負けじ魂をもっていた。
喜一郎氏も内に秘めてもっていたように思う。佐吉翁の聞書
(ききがき)のなかには、日本人は知能で世界に挑戦すべき
であることが、強い口調で語られている。大正11~13年ごろ
のことらしい。
「現に白人は公然と日本人が現代文明に対して何を貢献して居
るか、中国には羅針盤の発明でもあるが、日本人に何の発明が
ある、日本人は只模倣の国民である、と評して居るではないか。
(中略)
それで日本人は非常に大いなる覚悟をもってこれに対抗しなけ
ればならい。別に喧嘩をしようと言うのではない。武力に訴え
て争わねばならないと言う事でもない。自己の知能の優秀なこ
とを証拠立てて、自らこの人間としての大恥辱を雪がねばなら
ないと言うのです。(中略)
ただ国際対抗の上において、いたずらに敵対心を持つよりは、
1歩も2歩も進んで人間の潜在能力を考えてこの人間の第6感
に対する恥辱を雪ぎ清むべく、各自の優秀なる智能を発揮せよ。
タカジアスターゼもあれば、野口英世博士もある。されど是等
は皆白人の指導により、援助により、それに加えて彼等の設備
の力を借りて、その目的を達したのです。今度は全く白人関係
なしに、日本人の絶対の力のみを以て一大発明を遂げようと言
うのです……」
知能による挑戦のすさまじい熱意がほとばしっているのを感じ
る。豊田喜一郎氏が私どもに「3年でアメリカに追いつけ」と
いった気持のなかには、佐吉翁の話ほど、むき出しの闘志は感
じられなかったが、その決意の内には並み並みならぬ挑戦の姿
勢があったことは確かである。

■■ 科学性と合理性のトヨタイズム ■■
トヨタの歴史のなかで、佐吉翁と喜一郎氏とは2大傑物である。
昭和10年、東京芝浦で行なわれたトヨタ自動車試作車東京発
表会席上、喜一郎氏は佐吉翁の未発表の言葉として、「私は織
機で国のためにつくした。お前は自動車をつくって国のために
つくせ。これが父の遺言となった」と述べて話題を呼んだ。
トヨタイズムは豊田喜一郎氏によって確立されたと考える。
喜一郎氏の描いた自動車事業のあるべき姿はつぎの条件を満た
すことであった。
(1)あくまで目標は大衆車とする
(2)乗用車工業を完成させなければならない
(3)売れる値段の自動車をつくる
(4)メーカーの計画を生かすものは販売力
(5)基礎資材工業の確立

トヨタ物語 5 | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.388 ■□■
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*** トヨタ物語 5 ***
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品質不祥事も事例7までお伝えしましたので、品質不祥事から
離れてまた「トヨタ物語」へ戻りたいと思います。下記の記述
は1970年頃に私が聴いた大野耐一氏の講演記録からです。

■■ 2人の傑物 ■■
トヨタ生産方式の基本思想を支える2本の柱について説明する。
「自働化」は豊田佐吉翁の思想と実践のなかから汲み取ったも
のである。佐吉翁の発明した豊田式自働織機はスピードが速い
だけでなく、たくさんの経糸のうち一本でも切れたり、横糸が
なくなったりすると、機械が自動的に止まる仕掛けになってい
る。
 トヨタ生産方式は生産現場のムダ、ムラ、ムリを徹底的に排
除することを絶対の条件としているために、機械に少しでも異
常が発生し、不良品を生み出す恐れが生じた場合には、直ちに
止まることが不可欠である。
 これについては、豊田式自働織機という具体的な教科書が目
前にあった。機械に人間の知恵をつけることこそ、真に人間の
ための機械になることを佐吉翁の業績から学ぶことができた。

■■ 豊田佐吉翁 ■■
学ぶべきは佐吉翁の物に対する真摯な態度であった。原口晃氏
の「佐吉翁に聴く」という文章のなかにこんな一節がある。
「其の時分は今日の様に紡織業が盛んに行われて居る訳では
ない、多くの家で婆さんたちが手織縞を織る位のものであった。
農家ばかりの自分の村でも戸毎に、皆手織機を持って居った。
その環境に支配されると云うものか、自分の考えは、段々とこ
の手織機の方に向って来た。ある時は近所の婆さんが機を織る
のを終日立って見て居った事もある。機の動く調子が段々と判
って来る。織り上げられる木綿がだんだん巻き上げられてゆく。
見れば見る程面白くなって来る。興味も起って来る。」

佐吉翁20歳の春、明治20年ごろを振り返って語ったものであ
るが、私は、ここで、お婆さんが機を織るのを終日立ちつくし
て見ていたこと、機の動く調子がだんだんとわかってきたこと、
そして、見れば見るほどおもしろくなってくること、この態度
に感動した。

■■ 改善 ■■
 私がいつも口が酸っぱくなるほど言っている、対象物に5回
の「なぜ」を繰り返してみよというトヨタ生産方式における思
考原則も、実をいうと、佐吉翁のこうした態度に通ずるもので
ある。
作業の改善といっても、生産現場を熟知せずにはなにごともで
きない。生産現場に終日、立ちつくして見よ、そうしたら何を
しなければならないかが自ずとわかるはずであると、私は繰り
返し言ってきた。
両眼を見開いて生産現場に立つと、ほんとうにムダとはどうい
うものかがはっきりとわかるものである。私どもが絶えず注意
を喚起している、「動き」を「働き」にする具体的な方策も発見
できるはずである。

■■ 改豊田喜一郎 ■■
 「ジャスト・イン・タイム」という言葉は豊田喜一郎氏の口
から直接、発せられたものであるが、こちらの柱は、「自働化」
の発想を促してくれた豊田式自働織機のような対象物がなかっ
ただけに、別の意味で難題であった。
 佐吉翁が初めてアメリカに渡ったのは明治43年(1910年)、
自動車産業の勃興期であった。自動車人気が高まって、われも
われもと自動車づくりに乗り出していたときであり、あのT型
フォードがちょうど2年前(1908年)に発売開始されて、続々
と市場に現われているのを、佐吉翁は目のあたりにしたのであ
る。
 いま思っても、ものすごい刺激であったろう。しかも相手は
発明王の佐吉翁である。4か月のアメリカ滞在で、自動車のな
んたるかを見て取ったにちがいないのだ。自動車が大衆の足に
なりうることを独特の勘で読み取ったのではなかったか。
その証拠には、帰朝以来、佐吉翁は、「これからの時代は自動
車だ」と繰り返し言っていたと聞く。
 豊田喜一郎氏が自動車事業に取り組んだのも、佐吉翁の意を
体してのことにはちがいなかったが、自動車産業に対する認識、
つまりアメリカの自動車企業を見る目はじつにクールであった
ように思われる。すなわち、自動車産業の可能性がいかに大で
あるかを認識すると同時に、無数の周辺企業の存在、そのなか
での企業体制など、自動車事業のむずかしさをも心の底に刻み
込んでいたのではなかったか。

閑話休題 品質不祥事10 | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.387 ■□■
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*** 閑話休題 品質不祥事 10 ***
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「品質不正防止TR」の原案は、73件のパブリックコメントを受け
て原案を修正し、その結果を審議委員会に来週かけることになりま
した。審議委員会で審議承認され、学会の理事会で認められれば
JSQC規格として発行されることになります。
「品質不正防止TR」規格は、2023年初頭には発行されると予想し
ています。

■■ 品質不正事例 7 ■■
You tube「超ISO」の品質不祥事シリーズに公開していますが、品
質不祥事を起こした企業の第三者委員会調査報告書の7回目につい
てお話しをします。
【事例7】
M電機株式会社  2021/6発覚 (36年以上)
<何が起きたのか>
鉄道用空調装置の品質データを架空に自動生成する専用プログラム
を1980年代から使い、品質データをねつ造していた。明らかに組
織的な不正行為であるとして社長は引責辞任した。「顧客との関係
より、自分たちの論理を優先する業務の進め方が問題だった(引責
辞任した社長の弁)」、また他者には口出ししない,という組織風土、
品質管理の基本が不徹底であったと説明された。

■■ どうして起きたのか ■■
<原因の究明を行った結果>
1 規定された手続により品質を証明する姿勢の欠如と、「品質に実
質的に問題がなければよい」という正当化が背景にあった。
(1) 手続軽視の姿勢 : 品質保証の第一歩が「手続」を遵守するこ
とである点を軽視していた。
(2) 「実質的に品質に問題はない」といった誤った正当化が存在し
ていた。
(3) 低い規範意識 : 顧客との約束を守る、法令や規格を遵守す
るといった、ビジネスの根幹に関わる倫理観や規範意識が低
下していた。

2 品質部門の脆弱性
(1) 品質保証部 (品質保証課 )や品質管理課等の品質部門が、製
造部門に対して十分な牽制力を働かすことができていなかった。

3 ミドル・マネジメント(主に課長クラスの脆弱性)
(1) 経営と現場の結節点として機能するべきミドル・マネジメン
ト層がその役割を果たしておらなかった。

4 本部・コーポレートと現場との距離・断絶
(1) 本部・コーポレートと現場の距離・断絶が存在しており、そ
れが品質不正を発生させ、またその存在を温存させる原因と
なった。

5 真因分析:組織論、風土論
(1) 拠点単位の組織構造 : 事業本部を跨ぐ人事異動は、本社コー
ポレート部門が人事を管理している総務、経理、資材等の一
部の職種の従業員についてであった。多くの従業員は、最初
に所属した製作所内に留まる人事制度に影響さを受けたもの
と考えられる。これが内輪意識を醸成し、品質部門が本来の
機能を果たすことができない遠因を作ることにもなった。

(2) 事業本部制について: 採用する事業本部制故に、個々の事業
本部の独立性が強く、他の事業本部で発生した問題を自らの
問題として受け止めることを難しくした。

(3) 経営陣の本気度 :経営陣が本気度を示して、組織・風土上
の問題点について改善していなかった。「言ったもん負け」の
文化があること、アンケート調査でも「部下が上司に気軽に
相談できる環境ではない」などと、上司への相談のしにくさ
を訴える回答が相次いでいること等を指摘しているところで
ある。

「ものが言えない」のは、上司や同僚との人的関係が悪化する
ことを慮ってのことである場合が多いが、組織が閉鎖的であ
り、異動が少ない組織であればあるほど、その傾向は強くなる。

閑話休題 品質不祥事9 | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.386 ■□■
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*** 閑話休題 品質不祥事 9 ***
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しばらく(4回)余談として、トヨタの「ジャストインタイム」が
どのように考えられてきたか、大野耐一さんの講演録からお話をし
てきました。
さて、本題に戻って、381号続きの品質不祥事のお話しです。まず
は、(一社)日本品質管理学会(JSQC)で作成してきました、「品
質不正防止TR」(JSQC-TR-01-001)のパブリックコメントは、
11月26日締め切られました。

■■ パブリックコメント ■■
(一社)日本品質管理学会には、新しい規格を作成するときの手順
として「パブリックコメントを募集する」という手続きがあります。
今回は2021年3月から約1.5年かけて作成された「品質不正防止
TR」の原案が10月27日~11月26日まで一般に公開されました。
この制度は学会メンバーだけでなくすべての方が原案に対して意見
が言える制度です。結果74件のコメント(意見)が寄せられまし
た。
学会では審議委員会を設置して、寄せられたすべてのコメントを審
議にかけ、原案をより良いものにする活動に入っています。

■■ 品質不正事例 6 ■■
You tube「超ISO」の品質不祥事シリーズに公開していますが、品
質不祥事を起こした企業の第三者委員会調査報告書の6回目につい
てお話しをします。品質不祥事の「第三者委員会調査報告書」に対
して我々が興味を持つのは、1)どんなことが起きたのか、2)なぜ起
きたかの2点です。「第三者委員会調査報告書」は少ないものでも
100ページ、多いものだと1,000ページを超えますので、ここでは
2)に焦点を絞って報告書に記載されたままを簡潔に紹介します。な
お、「第三者委員会調査報告書」の該当部分をそのまま記述している
ため、文章のつながり、整合、体裁などが統一されていないところ
がありますが、ご容赦ください。

事例6
A株式会社  2015/10発覚 (過去10年に遡上)
<何が起きたのか>
杭工事で品質データの転用や加筆などの改ざんが行われたことが発
覚し、調査の結果、過去10年に請け負った物件3,040件のうち
2,376件の調査が終わった段階で、266 件のデータ偽装が確認され
た。
現場の担当者個人の資質に帰するべき問題ではなく、組織全体の品
質保証意識の欠如が問題で業界全体に蔓延した悪癖であると指摘さ
れた。

■■ どうして起きたのか ■■
<原因の究明を行った結果>
データ流用の原因・背景としては、大きく3つに分けて考察するこ
とが妥当である。すなわち、杭工事現場での問題点として、1)デー
タの適切な取得及び保管ができていない点、さらに、そのような
場合に、2)データがないことを申告せず、データ流用によって施
工記録を形式的に整えることで良いとしている点、がある。
以上に加えて、データ流用は本件マンション以前にA株式会社が
施工した杭工事においても確認されているところ、3)長年かつ多
数回にわたってデータ流用を発生させてきた組織の管理体制・教
育体制の問題点が指摘できる。

1) 不適切行為(施工データ欠落)
(1) 計測装置操作に関する要因
(2) 現場責任者と作業員のコミュニケーション不足
(3) 施工データの管理に関する要因

2) 不適切行為(データ欠落)への対応
(1) 施工データの管理手順未整備
(2)データ欠落時の対応ルールの不徹底
(3) 組織の管理体制の問題

3) 施工データの重要性に対する現場責任者らの意識
(1) 現場責任者らにおける施工データ軽視の風潮
(2) 現場責任者がデータ欠落を報告しにくい環境
(3) 施工データの取扱の実態に関する認識不足
(4) 社内での情報共有の体制に関する問題
(5) 人員の固定化の問題

余談4 トヨタ | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.385 ■□■
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*** 余談4 トヨタ ***
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「品質不祥事」(You tube「超ISO」)の途中で、余談と称してトヨ
タ創業の頃の話をさせて頂いています。戦前の創業者たちの困難に
もめげず、果敢に挑戦をしていった若きトヨタの物語です。50年も
前に私がトヨタの大野耐一副社長(故人)の講演で直接聴いた話を
当時の講演録からお伝えします。

■■ 豊田紡織に入社  ■■
私は昭和7年(1932年)の春、名古屋高等工業の機械科を出て、
豊田紡織に入社をしました。トヨタの社祖ともいうべき豊田佐吉翁
の創立になる会社でした。
 当時の世相、その2年前にニューヨーク株式の大暴落をきっかけ
に起きた世界的な経済恐慌の余波が日本経済にも根強く残り、不況
で失業者が続出していました。殺伐とした社会情勢のなかで、犬養
木堂首相の暗殺、すなわち5.15事件が起きた年でもありました。
 豊田紡織への入社の動機は、専攻した機械の勉強を生かすことで
したが、なにしろ当時は就職難の世の中、私の父が豊田喜一郎氏の
知合いであった関係上、豊田紡織に入れてもらいました。

 その豊田喜一郎氏と自動車の世界で遭遇できるとは、私自身、予
想もしていなかったのですが、戦中の昭和17年に豊田紡織が解散
したために、翌18年、トヨタ自工へ転籍することとなり、当時、
戦況激しいなかで国産自動車の製造に邁進していた豊田喜一郎氏の
傘下に入るにいたったという経緯です。
私にとって紡績の経験は貴重でありました。自動車であろうが、
紡績であろうが、生産現場における人間と機械の関係は基本的には
共通しています。「物をつくる」ことを根幹となす2次産業に属す
る私企業にとって、原価低減が経営の最大課題であることは、洋の
東西、そして昔も今も変わるところはありません。
 日本の紡績の世界は、自動車の世界よりはるか昔、戦前から、世
界経済の荒波にもまれていました。それこそ、イギリスのランカシ
ャーに追いつき、ヨークシャーを追い越せといった具合に、国際競
争力を強めるための原価低減策がつぎつぎと実現されていました。
 そういったわけで、日本の紡績業は、すでに戦前、世界的な視野
をもって、生産現場の合理化に取り組んでいましたが、日本の自動
車産業は歴史の浅い産業でした。戦前から戦中、豊田喜一郎氏を先
頭とする自動車技術者および自動車経営者たちが、国産自動車の量
産を企てましたが、残念ながら、それは豊田喜一郎氏が心に描いて
いたものではありませんでした。相当量のトラックをつくるまでに
はなりましたが、念願の乗用車の量産にはほど遠い状況でした。

■■ アメリカに追いつけ  ■■
戦後まもなく、当時のトヨタ自工社長の豊田喜一郎氏は「アメリ
カに追いつけ」と私どもを叱咤激励しました。
アメリカに追いつけの願いが現実の可能性に通じていくのは、戦
後の昭和20年代後半からでした。小型乗用車の生産制限解除およ
び自動車の公定価格の廃止はいずれも昭和24年の10月であり、全
面的な配給統制の撤廃、自由販売制への移行は25年4月でした。
しかし、不運なことに、豊田喜一郎氏は労働争議の責任を取って
社長の地位を退かれました。私がここで言いたいのは、私が最初に
入った豊田紡績、つぎに移ったトヨタ自工のいずれもが、当時、規
模こそ小さかったが、内には世界的レベルを感じさせる雰囲気があ
ちこちに見られたという事です。昭和7年に私は豊田紡績へ入社し
ましたが、その2年前に豊田佐吉翁は既に不帰の人となっていまし
た。この会社には、豊田佐吉発明王の偉大な遺風が残っていて、無
意識のうちに世界的なレベルがいかなるものであるかを知り得たよ
うに思います。

■■ 必要な品物が、必要なときに、必要なだけ  ■■
この豊田喜一郎氏が、あるとき、豊田英二氏(現トヨタ自工社長)
にこのようなことを言ったというのです。「自動車事業のような総
合工業では、自動車の組立作業にとって、各部品がジャスト・イン・
タイムにラインの側に集まるのがいちばんよい」と言ったというの
です。
「ジャスト・イン・タイム」とは「必要な品物が、必要なときに、
必要なだけ」ライン・サイドに到着するつくり方で、トヨタ生産方
式の基本思想をなしていること
は、すでに皆様もご承知のとおりだ
と思います。
豊田喜一郎氏の発した「ジャスト・イン・タイム」の一言が、ト
ヨタマンのいく人かに一種の啓示を与えました。私もこの言葉にと
りつかれた1人でした。私はといえば、最初から現在にいたるまで、
とりつかれっ放しであると言って良いと思います。「ジャスト・イ
ン・タイム」なる言葉自体、当時としては目新しかったが、引きつ
けられたのはその中身でした。必要な部品が、必要なときに、必要
な量だけ、生産ラインのすべての工程の脇に同時に到着する光景は、
想像するだけでも楽しいし、刺激的でした。
それは夢のようなところがありましたが、けっして実現不可能と
言い切れないところがありました。実施できそうであるが実際には
やれない、あるいは、非常にむずかしそうだが、けっしてやれない
わけではない。いずれの場合も、人を刺激するチェレンジ溢れる言
葉でした。自動車に素人の私ではありましたが、当時の喜一郎氏の
発言に私は雷に強く打たれたように啓示を受けたのです。
豊田喜一郎氏という、先見性では比類のない人物にめぐりあうこ
とができたのは、幸運と言わざるを得ませんが、私の身近には、い
つも、このような世界的に通用する「普遍の世界」が開かれていた
です。