Category Archives: つなげるツボ

閑話休題 ー 三菱電機最終報告書 | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.392 ■□■
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*** 閑話休題 ― 三菱電機最終報告書 ***
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「トヨタ物語」を続けてきましたが、閑話休題ということで元の
品質不祥事に戻りたいと思います(品質不祥事11)。昨年2022年
10月に三菱電機から第三者委員会最終報告書が出されました。こ
の報告書は、2021年4月に発覚した名古屋製作所可児工場で製造
する電磁開閉器に第三者認証機関Underwriters Laboratories Inc.
(UL)に承認されたとは異なる樹脂材料が使用されていたことをきっ
かけに3報告者が出されていた(2021年10月、12月、2022年
5月)が、一連の報告書の最終のものです(第4報)。
ここには他者報告書とは異なる手法、徹底性が見られ、今後の品
質不正撲滅に期待が持てる内容が記載されているので号を費やし
て説明をしていきたいと思います。ここに書かれていることが、
日本の産業界全体で本当に実践されていけば、日本の製造業の回
復、ひいては国際競争力のUPにつながるのではないかと期待し
ます。

■■ 新しい手法フォレンジックとは ■■
ここで言う「新しい」とは社会全般の中において新しいという意
味ではありません。品質不正の調査解明に当たって今までの調査
では見られなかった手法を活用しているという意味です。
Forensicsとは、日本語に訳すと「法廷の」「法医学」などという
用語になりますが、犯罪の法的な証拠を見つけるための鑑識捜査
を指します。三菱電機調査報告書(以下単に報告書という)の中
に.フォレンジックという用語が出てきますが、仕事の中で使う
コンピュータやデジタル記録媒体を調べ、中に残された証拠を調
査・解析する「デジタルフォレンジック」を使っていると説明さ
れています。

第三者委員会は、「Epiq Systems 合同会社の補助を受けつつ、三
菱電機のメールサーバに保管されていた、2016年4月1日から
2021年8月15日までに在任していた取締役及び執行役の電子メ
ールデータ(メールサーバに保管されていた2016年4月1日~
2021年8月15日のデータ)を保全した。」と記載しており、「当委
員会は、保全されたデータ合計3,619,181件から期間及びキーワー
ドにより抽出されたデータについて、レビューを実施した。」とあ
ります。これは本社の役員だけでなく、各製作所の職員に対して
も行われており、いずれも数百万に及ぶ電子データをレビューし
たとあります。全文書検索によるビックデータ解析がAIにより
可能になった昨今の科学的手法の導入は注目されます。

品質不祥事を調査するのに、従来は該当すると思われる人たちに
インタビューするという手法が普通でしたが、それと並行して物
理的な証拠により不正の実態を明るみに出そうというすこぶる斬
新的な手法の活用は評価に値すると思います。

このような手法が普通に行われるようになると、今後の不正行動
の抑制につながることになると思います。

■■ 新しい手法リニエンシーとは ■■
Leniencyとは、諸般の事情を考慮して罪を減免することを意味し
ます。社会一般では、すでに独禁法の世界で「リニエンシー制度」
が導入されており、JRリニア新幹線談合事件などで利用されまし
た。カルテルや入札談合を公正取引委員会に自主的に申告した企
業には課徴金を減免する恩恵が与えられる、いわゆる司法取引制
度です。
組織的な不正の場合、個人の不正とは異なり、必ずしも自分の意
志で不正を働いたとは限りません。上司から言われて苦渋の決断
をしたとか、「会社のために止むを得ず」という忸怩たる思いも時
にあるでしょう。しかし、それは同時に、責任の所在が曖昧にな
り、不正が発覚した場合に、組織を挙げて証拠を隠滅したり、あ
るいは特定の人、弱い立場の人に責任を押し付け、逃げ切りを図
ったりするということもあり得ます。

可児工場におけるアンケート調査に際しては、リニエンシーを行
うことも検討しましたが、「上司が品質不正を自主申告して懲戒処
分を逃れ、上司を慮って隠していた部下が懲戒処分を受けるとい
ったモラルハザード問題がある。社内リニエンシーまでは行わず
自主申告は懲戒処分検討に当たり有利な情状として考慮すること
にした。」との記述があります。

一方、三菱電機の全従業員55,302名を対象としたアンケート調査
は、2021年7月28日に開始されましたが、アンケート調査を実
施するに際しては、「社内リニエンシーを導入し、アンケート用紙
に今回の調査で品質に関わる不適切な問題を自主的に申告した場
合、社内処分の対象になりません」と明記することとしたとあり
ます。

アンケート調査には、「アンケートで回答いただいた内容は、秘密
として厳重に管理され、三菱電機グループ外の専門家からなる調
査委員会のみが閲覧し、皆さんの上司や同僚などには一切開示さ
れません。」と明記したとあります。

アンケートは、勤務場所に提出するのではなく、弁護士事務所宛
に各従業員自ら直接送付することとし、アンケートに回答したこ
とを理由に、上司や同僚等から嫌がらせを受けた場合には、弁護
士事務所が設定した電子メールアドレスに連絡するよう記載し、
そのような嫌がらせに対しては厳正に対処することも明記されて
いました。

しかしそこまでしても、後日、上司からプレッシャーを受けたと
する通報があり、弁護士が会社に注意するよう申し入れしたとい
う一幕がありました。

組織における指揮命令系統や不正に至る経緯は複雑であり、外部
から真相を究明することは容易ではありません。そこで、このよ
うな新しい手法を品質不正の抽出に活用した事例が今回の報告書
にはたくさん書かれているので、読者の皆さんも一読することを
お勧めします。

トヨタ物語 8 | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.391 ■□■
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*** トヨタ物語 8 ***
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「トヨタ物語」も今回で8話になります。トヨタ創業期の話と
近年の品質不祥事の話には大きなギャップがありますが、この
違いはどこから来るのか、考えさせられます。下記の記述は
1970年頃に私が聞いた大野耐一氏(当時副社長)の講演記録か
らです。

■■ 大局観と詰め ■■
佐吉翁も喜一郎氏も、国際感覚というか、世界を見る目ではだれ
よりも優れていたと思う。先見性に秀でていた。終始、生産現場
に立ちつくしていた点でも共通している。ものごとを常にリアル
に、クールに、そして客観的に見つめ続けたのである。物との対
決によって対象物の本質に迫ったのである。
特に生産現場に立つと、重箱の隅を揚枝でほじくることをしがち
だが、佐吉翁も喜一郎氏もそこは違っていた。
全体像を描くというか、大局観というか、いつも豊かなデザイン
を頭に描いていたように思われる。
それでいて、詰めも確かであった。
佐吉翁の発明生活は原口晃氏の「佐吉翁に聴く」で伺い知ること
ができるが、努力の人であると同時に、天才を感じさせられる。

■■ 佐吉翁の孤独 ■■
カタログや書籍を見ようともせずに、新聞や雑誌の力を借りよう
ともせずに、まして、人に教を乞い、人に智恵を借りて発明を助
けようともしない。数学を習ったこともなければ、物理学を学ん
だこともない。全く自ら考え、自ら案出して、人の仰ぐ一大発明
を完成されたのです。
併も、其の理屈が全て学理に一致し、いかなる数学の先生も、機
械の学者も、翁の発明に対しては、文句を付けることは出来ない。
そうして、翁の発明は全て実地の仕事から割り出して来るので、
そこに学理と多少の食い違いがあるにしても、実際の使用になる
と、翁の発明は却って学理よりも超越した成績を現わす。斯くて
翁は全く実際主義の人であった。(中略)

顧問もなければ、助手も無い。単独孤立、別に特別の研究室を持
つでも無く、参考資料を左右に置くでも無く、自宅の居室が研究
室であり、事務室である。訪れる人もなければ、人を呼ぼうとも
しない。只朝から晩まで幾日も続いて天井の裏を眺め、畳の表を
見詰めて、静かに考案に耽り、斯くの如くにして、その110余の
特許を自分の頭から生み出されたのである。
考える素材を見つけ出し、その対象物を穴のあくほど凝視して、
その本質を知りつくす。近所のお婆さんの手織機を終日、立ちつ
くして見続ける……。佐吉翁のイマジネーションの源泉であり、
且つ、物事を具体的に詰めていく姿勢である。
外国の事情を自分の目で確かめることによって飛躍していく佐吉
翁の進取の気性、視野の広さにも感服せざるをえない。気宇広大
となって外へ外へと拡散していくだけではない。つぎの瞬間には、
対象物から発するイマジネーションを具体的な形に凝縮していく
のである。勝負事でいう大局観と詰めの両方を兼ね備えていたと
いってよいだろう。

佐吉翁は明治43年に欧米視察をした。それより前、トラブルが
あって豊田式織機株式会社を退職し、むしろ逆境にあったと言っ
てよいのだが、アメリカで当時、画期的な発明といわれた「ノー
スロップ式」や「アイデアル式」の自動織機を見て、自分の発明
した自動織機の方がはるかに優れているのを発見して、元気を取
り戻す。外国を歩いて大いなる飛躍台にする佐吉翁の不屈の精神
は素晴らしいものである。

その時、アメリカで自動車も見た。この時、自動織機のつぎには
自動車を手がけたい気特になった。自動織機と自動車とは佐吉翁
のイマジネーションの世界では非常に強く結び付いたと考えられ
る。
佐吉翁の創造物である豊田式自動織機および環状織機は原理的に
自動車と共通するところがあった。自動織機も自動車も動力によ
って自動的に動く機械である。また長さの制限を超越した製織を
行なう環状織機と、軌道を持たないで自由に道路を走る自動車の
無限性とは、その発想点において、また実用の場においても同次
元で考えることのできる機械であった。
佐吉翁の留まるところを知らないイマジネーションは、常に現実
世界において具体的な形で展開してゆき、やがて収嶮されていく
習性をもっていた。
アメリカ滞在から帰った佐吉翁が「これからは自動車だ」と声を
大にして繰り返し叫んだと言われるが、頭の中ではすでに自動織
機の詰めのほかに、新たに、日本での自動車工業の構想大局観み
たいなものが去来し始めていたことであろう。

■■ 日本のオリジナルを求めて ■■
豊田佐吉翁から豊田喜一郎氏へ、さらに現在のトヨタ自工にいた
る過程は、日本の近代工業の発展と成熟の道程であり、そこには
一本の線がはっきりと貫かれている。
貫かれている太い線こそ、日本のオリジナル技術の追求である。
佐吉翁がそもそも自動織機の発明を思い立ったのは明治34年
(1901年)であったといわれる。それが完成されたのは大正15
年(1926年)、この間25年もの歳月が費やされたのである。
その最大の成果は何かといえば、私は佐吉翁の悲願ともいうべき
「日本人の絶対の力のみをもって一大発明を遂げる」ことであり、
それを立派に成就したことではなかったかと思う。
佐吉翁の言行録を紐解くと、工業立国の実現のため、西欧に対抗
するという猛烈な挑戦の姿勢がある。それも「知能による挑戦」
と自ら言っているところに時代を超越した新しさがある。
日本人固有の「知能」を訓練し、研いて、その知能の所産である
日本のオリジナル商品を外国に売って国の富をふやそうというの
が、佐吉翁の人生観、事業観、世界観であったと言ってもよい。

トヨタ物語 7 | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.390 ■□■
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*** トヨタ物語 7 ***
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あけましておめでとうございます。2023年も「つなげるツボ」
のご愛読をお願いいたします。昨年、品質不祥事について事例7
までお伝えしましたが、「トヨタ物語」も今回で7話になります。
トヨタ創業期の話と近年の品質不祥事の話には大きなギャップが
ありますが、この違いはどこから来るのか、考えさせられます。
下記の記述は1970年頃に私が聞いた大野耐一氏(当時副社長)
の講演記録からです。

■■ 価値ある商品作り ■■
自動車製造事業法が昭和11年に公布されることによって、国産
自動車企業の保護助成が行なわれることになった。しかし、市場
におけるニーズは売れる値段を企業が提供できるかにある。
喜一郎氏の根底の企業家精神がはっきりと読み取れる。以下は
喜一郎氏の述べたことである。

日本の現在の知識の集合によって漸く自動車の形状は出来る様に
なりました。その後これをいかに改善し発展させるかと言う事は、
今後の学術的研究と相まって進んでいますが、これはその後の問
題として現実に来たる時に大問題はいかに良い自動車が出来ても
高くて経済的に使用出来ない物では、何にもなりません。結局は
値段の問題に落ち着く訳です。果して日本ではどれ位の数量を作
れば国産車として適当な値段で出来るでしょうか。これは誰もが
知りたい数字でありますが、誰もが確答する事は出来ません。

■■ 売れる値段とは ■■
現実売れる値段で売らなくてはならず、売れる値段とはどの位の
価格であるか、少なくとも外国車より安くなくては売れないでし
ょう。愛国心に訴えて販売しても、月に50台や100台は何とか
なるかもしれませんが、500台を売りさばく事は難しい事なので
す。やはり価格で競争しなければなりません。殊に人の癖として、
新しい物を安く買う事に、一種の快楽を覚えるものでありますか
ら、必要以上に安く叩かれる事は、今迄我々が買った機械の販売
においても明らかであります。政府関係の車は定価格で買ってく
れるかも知れませんが、それ以外の物は必ず出来る限りの最大限
の値引きが行われるのです。それを愛国心に訴えると言う事は事
実上不可能でしょう。故に値段は思い切って安くしなければなり
ませんし、また行わなかったら毎月何100台という車を置いてお
く事は出来ないでしょう。如何に販売技術を向上させ、宣伝を巧
みにするとしても、一時はそれで何とか誤魔化すことも出来るか
も知れませんが、長続きはしません。段々国産車の値打ちが解っ
てくればそれ相当の値段で買って貰えますが、これまでは無償で
持ってきたら義理で使ってあげよう位の考えで国産車を使われる
人が多い事と思います。何も国家の為だと言って先に立って国産
車を使用して見ようと考えられる人は極めて少ない事と思います。
やはり新しい物に金額を掛けて良くしなくてはなりませんが、値
段はとても安くしなくてはなりません。国産車を作って売ろうと
するならばこれ位の事は当然考えなくてはなりませんが、果して
その値段で売って将来採算が取れるかどうか、この点は製造者と
して最も考慮を要する点であります。

■■ 消費者が買える値段 ■■
幸い自動車製造事業法が出来て、ある程度の無茶な値段の競争は
防がれました。しかし逆にこれが出来た為に、外国車も国産車も
以前より高くなる様では申し訳けがありません。少なくとも、こ
れが出来た為に国産車が発達し、その為に、消費者も安い自動車
が買える様でなくてはいけません。この点に大きな責任がありま
す。しかし始めからは安く出来ないのは当然です。現在国産車と
して売れる値段をもって経済的に製造し得る可能性が有るかどう
か、値段を安くするのは良いが、その為に材料や製品を悪くして、
使用に堪えない様になったら結局は何にもなりません。現に国産
車の出鼻において、常な困難が有ります。安くて良い品物を作れ
ば売れると言う原則には変りありませんが、始めから安くて良い
物が出来るはずはありません。この難関をいかにして突破するか、
自動車製造事業法は、無理な競争、殊に外国車の基礎も充分に固
まった実力の有る会社のダンピングを防ぐ意味において有効では
ありますが、正当な競争においてはやはり自らの力に頼る外、致
し方がありません。

■■ 自動車製造事業法 ■■
昭和11年5月には政府の国産自動車工業確立に関する「自動車
製造事業法」が公布された。自動車工業を政府の許可事業とし、
外車組立事業を抑制して国産自動車工業を育成するという、強力
なる政府の助成策であった。
これに対して喜一郎氏は、無茶な競争はおさえられるが、それに
甘えていれば、結局、一番肝心の消費者、つまりお客様に見放さ
れてしまうと、自らを戒めている。この考え方には、私企業の自
己責任意識が溢れでている。

トヨタ物語 6 | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.389 ■□■
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*** トヨタ物語 6 ***
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品質不祥事も事例7までお伝えしましたので、品質不祥事から
離れてまた「トヨタ物語」へ戻っています。トヨタ創業期の話
と近年の品質不祥事の話には大きなギャップがあり、この違い
はどこから来るのか、考えさせられます。下記の記述は1970
年頃に私が聞いた大野耐一氏の講演記録からです。

■■ ジャスト・イン・タイム ■■
私は「ジャスト・イン・タイム」という豊田喜一郎氏の言葉に
強い啓示を受けたのだが、その後、この発想の原点についてあ
れこれと想像力を働かせてきた。むろん、直接聞けなかったか
らわからないが、すでにアメリカで大発展を見せていた自動車
の生産方式を凌駕するものはないかと、考え抜いていたことは
確かであった。
「ジャスト・イン・タイム」とは、じつにユニークな発想であ
る。いまでさえ容易に理解されないことを考え合わすと、喜一郎
氏の豊かなイマジネーションに敬意を表せざるをえない。
「ジャスト・イン・タイム」の発想のユニークさを考えるとき、
佐吉翁の「日本人の絶対の力のみを以て」に共通する「負けじ
魂」みたいなものを感じ取れる。昭和27年に喜一郎氏は亡く
なられたが、私としては「ジャスト・イン・タイム」は、豊田
喜一郎氏の遺言であったと考えているのである。

■■ 負けじ魂に学ぶ ■■
豊田佐吉翁も豊田喜一郎氏も、強烈な負けじ魂を共にもってい
たように思う。佐吉翁はむき出しの負けじ魂をもっていた。
喜一郎氏も内に秘めてもっていたように思う。佐吉翁の聞書
(ききがき)のなかには、日本人は知能で世界に挑戦すべき
であることが、強い口調で語られている。大正11~13年ごろ
のことらしい。
「現に白人は公然と日本人が現代文明に対して何を貢献して居
るか、中国には羅針盤の発明でもあるが、日本人に何の発明が
ある、日本人は只模倣の国民である、と評して居るではないか。
(中略)
それで日本人は非常に大いなる覚悟をもってこれに対抗しなけ
ればならい。別に喧嘩をしようと言うのではない。武力に訴え
て争わねばならないと言う事でもない。自己の知能の優秀なこ
とを証拠立てて、自らこの人間としての大恥辱を雪がねばなら
ないと言うのです。(中略)
ただ国際対抗の上において、いたずらに敵対心を持つよりは、
1歩も2歩も進んで人間の潜在能力を考えてこの人間の第6感
に対する恥辱を雪ぎ清むべく、各自の優秀なる智能を発揮せよ。
タカジアスターゼもあれば、野口英世博士もある。されど是等
は皆白人の指導により、援助により、それに加えて彼等の設備
の力を借りて、その目的を達したのです。今度は全く白人関係
なしに、日本人の絶対の力のみを以て一大発明を遂げようと言
うのです……」
知能による挑戦のすさまじい熱意がほとばしっているのを感じ
る。豊田喜一郎氏が私どもに「3年でアメリカに追いつけ」と
いった気持のなかには、佐吉翁の話ほど、むき出しの闘志は感
じられなかったが、その決意の内には並み並みならぬ挑戦の姿
勢があったことは確かである。

■■ 科学性と合理性のトヨタイズム ■■
トヨタの歴史のなかで、佐吉翁と喜一郎氏とは2大傑物である。
昭和10年、東京芝浦で行なわれたトヨタ自動車試作車東京発
表会席上、喜一郎氏は佐吉翁の未発表の言葉として、「私は織
機で国のためにつくした。お前は自動車をつくって国のために
つくせ。これが父の遺言となった」と述べて話題を呼んだ。
トヨタイズムは豊田喜一郎氏によって確立されたと考える。
喜一郎氏の描いた自動車事業のあるべき姿はつぎの条件を満た
すことであった。
(1)あくまで目標は大衆車とする
(2)乗用車工業を完成させなければならない
(3)売れる値段の自動車をつくる
(4)メーカーの計画を生かすものは販売力
(5)基礎資材工業の確立

トヨタ物語 5 | 平林良人の『つなげるツボ』

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■□■ 平林良人の『つなげるツボ』Vol.388 ■□■
― ISOマネジメントシステムのテクノファ ―
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*** トヨタ物語 5 ***
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品質不祥事も事例7までお伝えしましたので、品質不祥事から
離れてまた「トヨタ物語」へ戻りたいと思います。下記の記述
は1970年頃に私が聴いた大野耐一氏の講演記録からです。

■■ 2人の傑物 ■■
トヨタ生産方式の基本思想を支える2本の柱について説明する。
「自働化」は豊田佐吉翁の思想と実践のなかから汲み取ったも
のである。佐吉翁の発明した豊田式自働織機はスピードが速い
だけでなく、たくさんの経糸のうち一本でも切れたり、横糸が
なくなったりすると、機械が自動的に止まる仕掛けになってい
る。
 トヨタ生産方式は生産現場のムダ、ムラ、ムリを徹底的に排
除することを絶対の条件としているために、機械に少しでも異
常が発生し、不良品を生み出す恐れが生じた場合には、直ちに
止まることが不可欠である。
 これについては、豊田式自働織機という具体的な教科書が目
前にあった。機械に人間の知恵をつけることこそ、真に人間の
ための機械になることを佐吉翁の業績から学ぶことができた。

■■ 豊田佐吉翁 ■■
学ぶべきは佐吉翁の物に対する真摯な態度であった。原口晃氏
の「佐吉翁に聴く」という文章のなかにこんな一節がある。
「其の時分は今日の様に紡織業が盛んに行われて居る訳では
ない、多くの家で婆さんたちが手織縞を織る位のものであった。
農家ばかりの自分の村でも戸毎に、皆手織機を持って居った。
その環境に支配されると云うものか、自分の考えは、段々とこ
の手織機の方に向って来た。ある時は近所の婆さんが機を織る
のを終日立って見て居った事もある。機の動く調子が段々と判
って来る。織り上げられる木綿がだんだん巻き上げられてゆく。
見れば見る程面白くなって来る。興味も起って来る。」

佐吉翁20歳の春、明治20年ごろを振り返って語ったものであ
るが、私は、ここで、お婆さんが機を織るのを終日立ちつくし
て見ていたこと、機の動く調子がだんだんとわかってきたこと、
そして、見れば見るほどおもしろくなってくること、この態度
に感動した。

■■ 改善 ■■
 私がいつも口が酸っぱくなるほど言っている、対象物に5回
の「なぜ」を繰り返してみよというトヨタ生産方式における思
考原則も、実をいうと、佐吉翁のこうした態度に通ずるもので
ある。
作業の改善といっても、生産現場を熟知せずにはなにごともで
きない。生産現場に終日、立ちつくして見よ、そうしたら何を
しなければならないかが自ずとわかるはずであると、私は繰り
返し言ってきた。
両眼を見開いて生産現場に立つと、ほんとうにムダとはどうい
うものかがはっきりとわかるものである。私どもが絶えず注意
を喚起している、「動き」を「働き」にする具体的な方策も発見
できるはずである。

■■ 改豊田喜一郎 ■■
 「ジャスト・イン・タイム」という言葉は豊田喜一郎氏の口
から直接、発せられたものであるが、こちらの柱は、「自働化」
の発想を促してくれた豊田式自働織機のような対象物がなかっ
ただけに、別の意味で難題であった。
 佐吉翁が初めてアメリカに渡ったのは明治43年(1910年)、
自動車産業の勃興期であった。自動車人気が高まって、われも
われもと自動車づくりに乗り出していたときであり、あのT型
フォードがちょうど2年前(1908年)に発売開始されて、続々
と市場に現われているのを、佐吉翁は目のあたりにしたのであ
る。
 いま思っても、ものすごい刺激であったろう。しかも相手は
発明王の佐吉翁である。4か月のアメリカ滞在で、自動車のな
んたるかを見て取ったにちがいないのだ。自動車が大衆の足に
なりうることを独特の勘で読み取ったのではなかったか。
その証拠には、帰朝以来、佐吉翁は、「これからの時代は自動
車だ」と繰り返し言っていたと聞く。
 豊田喜一郎氏が自動車事業に取り組んだのも、佐吉翁の意を
体してのことにはちがいなかったが、自動車産業に対する認識、
つまりアメリカの自動車企業を見る目はじつにクールであった
ように思われる。すなわち、自動車産業の可能性がいかに大で
あるかを認識すると同時に、無数の周辺企業の存在、そのなか
での企業体制など、自動車事業のむずかしさをも心の底に刻み
込んでいたのではなかったか。